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キリスト信徒やまひでの心の窓

キリスト信徒やまひでの心の窓

ルター著「詩篇への序言」石原謙訳

詩篇への序言 (1528年) マルティン・ルター

所載元
新訳「キリスト者の自由」「聖書への序言」
マルティン・ルター著 石原謙訳 岩波文庫957
岩波書店 昭和30(1955)年12月20日第1刷発行
     昭和38年7月10日第10刷発行

 詩篇を聖書の他の諸書にまさって特に嘆賞し愛誦した聖者たちは少くなかった。この書自身がその詩人を充分にほめ頌えているが、われわれもこれに対してわれわれの讃美と感謝とをあかししなければならない。
 過ぎ去った時代には、聖書物語や主の受難記や典範書や記録などの類が数多く流布して世をみたし、そのためにこの詩篇が押入れの下積みにされて人目に触れなくなり、これをただしく理解する者も稀になったが、それにもかかわらず詩篇はおのずからみごとな貴い芳香を放って、すべて敬虔な心ある人はまだ知らなかった言葉のうちから静想と力とを感じとり、これによってこの書を愛するにいたった。
 けれども私は思うに、詩篇があるよりもより以上に美しい典範書や聖書物語はかつて地上になかったしまたありえないのではないか。あらゆる典範書、物語、記録類のうちから最上のものを選みだして集成し、最善の方法に編述することを求めるとしたら、恐らく現存の詩篇がそれにあてはまるであろう。なぜならここに、ただ一二の聖者のなした事蹟が見出されるばかりでなく、あらゆる聖者の首〔キリスト〕がなしたもうたこと、またあらゆる聖者たちのなすところのこととが記されている。すなわち彼等が神に対し、その友また敵に対してどういう態度をとったか、彼らがあらゆる危険と苦難とに際していかに己れを持しまた適応したか、またあらゆる種の神的な救いにふさわしい教説と誡めとがそのうちに示されているということについて。
 そこで詩篇は、キリストの死と復活とをかくもはっきりと約束し、その御国と全キリスト教界の現状と本質とを予示しているほどに、貴重で且つ愛すべきであり、全聖書中にあるすべてのことが最も美しくもっとも簡潔に要約され、立派な「エンキリディオン」言わば虎の巻とされ備えられているので、これを小さな聖書と名づけたいほどである。思うに聖霊自から、簡短な聖書また全キリスト教界あるいは全聖者たちの典範書を編集する労を厭わないで、聖書全巻を読むことのできない人がここに一小冊子に纏められた全綱要をもてるようになされたのではないであろうか。
 けれどもすべてのことにまさって詩篇の貴い特長であり立場でもある点は、他の諸書が聖者たちの行いについて多々弁じていながら、彼等の言葉について述べる点ではなはだ貧しいのに対して、この詩篇は聖者たちの行いを物語るばかりでなく、その言葉をも伝え、彼等がいかに神と語りまた祈り求めたか、そして今もなお語りまた祈りつつあるかを告げて、これを読む者をして実に甘美な芳香を感じさせるほどの典型であるということである。これに対して他の物語や範例の示すところは、これを詩篇のそれと比較するときに、ほとんど全然唖の聖者に過ぎないのに反して、詩篇は正に驚嘆すべき活きた聖者をわれわれの眼前に彷彿させるのである。
 実際口をきかない唖者は語る人間と比べて、全く半ば死んだ人と言ってもよかろう。人間にあっては、語ることよりも力強い、より貴い働きというものはない。そのため人間は姿とかその他の動作とかよりも、語ることによって他の動物から最もよく区別されるものである。木片は彫刻術によってそこから人間の形態を造り出すことができるし、また動物は人間と同じように見、聞き、嗅ぎ、歌い、歩み、立ち、食い飲み、断食し渇き、飢餓と寒さと硬い臥床とに耐えることもできるのである。
 しかのみならず詩篇はさらにそれ以上に、聖者たちの素朴な日常の言辞をわれわれに伝えているのではなく、彼等が極めて真剣に神自身と全くすばらしいことについて語った最善の談話を述べているのである。これをもって彼(詩篇詩人)は、彼等の行いについての彼等の言ばかりでなく、彼等の心と彼等のたましいの深く根ざす宝とをわれわれに提供し、われわれをして彼等の言と行いとの根源と根拠とに、すなわち彼等の心に入らしめて、彼等がどういう思想をいだいていたか、あらゆる場合、危険と困窮とに際して彼等の心がどんな態度をとりまた保ったかを、示してくれる。物語や範例などはただ聖者たちの行いとか奇蹟とかについて誇りはするが、その一人のどれほど多くの立派な行いを見たり聞いたりしていたとしても、そこから彼の心が〔神に対して〕どうであるかを知ることはできないのである。
 そこで私は、一人の聖者の行いを見るよりはむしろ遥かにその語るのをききたく思うのと同様に、彼の言葉をきくよりはむしろ遥かに彼の心と彼のたましいのなかの宝とを見たいと望んだ。がこれは、詩篇が聖者についていとも豊かに提供してくれることで、これによってわれわれは、神に対しまた何人に対しても彼等の心がどんなに係わっていたか、また彼等の言葉がいかに響いていたかを確かめることができるのである。
 なぜなら人間の心は、世界の四方から暴風の吹きすさぶ荒海に漂う小舟のようなものである。ここには未来の災難に対する恐怖と憂慮とに攻められ、かしこには現在の害悪についての愚痴と悲愁とが去来する。ここでは未来の幸福への希望と自惚とがゆらぎ、かしこでは現在の財宝における確信とよろこびとがそよ吹いている。しかしかような嵐は真面目に語り、心を開き、その根柢をあばきいだすことを教える。というのは恐怖と困窮とにとどまる者は、不幸について語るところが、歓喜に浮動する者と同じくはない。喜びのうちにうわついている者は歓喜について、恐怖に沈んでいる者とは全く違って語りまた歌う。悲しむ者が笑い、喜ぶ者が泣いたとしたら、それは心からではないと言われているが、そこには彼の心の根源が開かれていないから、あらわされていないのである。
 しかし詩篇のなかの多くは、あらゆるかような嵐のなかでかような真面目な語りかけ以外の何であるか。讃美の詩や感謝の詩のもつよりもより美しい、喜びについての言葉がどこに見いだされるか。そこにあなたはあらゆる聖者の心のうちを見る。美しい楽しい花園においてのように、否、天においてのように、そこにはやさしい愛すべきほほ笑みつつある花が、神に対するその慈愛の故にあらゆる美しい喜びにみちた思想によって綻び開いているのを見る。さらにまたあなたは哀愁の詩の持つよりも、より以上に深い悲しみにみちて泣き叫ぶ、悲哀についての言葉をどこに見いだすだろうか。そこにあなたはあらゆる聖者の心のうちを、死においてのように、否、地獄においてのように透視する。神の怒りのあらゆる痛ましい様相のいかに陰惨で且つ暗欝であるかよ。同様にまた彼等が恐れと希望とについて語るときに、彼等はいかなる画家も恐怖なり希望なりをかくもまざまざと描写することはできないし、キケロや修辞家もかくまでに叙述することは不可能なような言葉を駆使しているのである。
 すでに述べたようにそれは、彼等がかかる言葉を神に向いまた神と語るに当って用いたほどに最善のものであり、そのうちに二重に其面目さと生命との備わっているところのものである。というのはさもない限りかかることにおいて人に対し語るとき、、かくも強く心から発することはないし、かくも著しく燃え活き迫ることもないであろう。さればこそ詩篇はあらゆる聖者たちの書なのであり、まただれがどういう事情の下にあるにせよ、そのうちに詩と言葉とをーー己れのことに諧調し、あたかもそれがただ己れのためにのみ取りあげられ、己れ自身でさえより善く置くことも見出すこともできず希望さえなしえないほどに、適わしくそぐうているのを見いだすのである。そこで何と幸いなことであるか、もしかような言葉が自分に降ってきて自分と調子を合せ、自分が聖者たちの仲間に加えられ、彼等がすべてその歌声を共にし、すべての聖者に行われるように彼にも行われることが確かめられるとしたら。殊に自分が神に向って、信仰において起こるに違いないことを、彼等がなしたと同じように語ることができるとしたら。なぜなら神を知らない人間にはそれは味われないことであるから。
 最後に詩篇にはわれわれを護る確実な輔導があって、そのうちのあらゆる聖者に危険なしにつき随って行くことができる。これ以外の唖の聖者たちの範例や物語の提供する多くの行いは人ののっとることのできないもので、むしろそれに追従することは危険であり、一般に異端的分派や徒党を起し、聖者の交りから背かせ引き裂くような類のものに属する。ところが詩篇はあなたを異端派から守って聖者の交りに安住させる。なぜならそれは、喜び、恐れ、望み、悲しみのうちにあって、すべての聖者が思慮しまた語ったと同じく思慮し語ることを教えるからである。
 これを要するに、もしあなたが、活きいきした色彩と姿とをもって小さな像に描き出された聖なるキリスト教会を見たいと願うなら、詩篇をとりあげなさい。そうすればキリスト教とは何かをあなたに示す立派な透明な純粋な鏡を得られるであろう。否、そこにあなたはあなた自身と本当の「汝自身を知れ」とを見いだすであろう、さらにこれに加えて神自からとあらゆる被造物とをも。
 この故にわれわれはかような言語を絶する賜物に対して神に感謝し、熱心真面目にこれを拝領し善用し訓練して、神に讃美と栄誉とをささげ、かくて腹立たしいものにわれわれの無感謝をもって報いるというようなことをやめようではないか。なぜならさきに暗黒の時代には、どういう種類の宝が尊重されていたとしても、誰が詩篇をただしく理解ししかもわかりやすいドイツ語で読み聞かしてくれたであろうか、そして実際人はこれをもってはいなかったのである。されば今やわれわれの見るところのものを見る眼、われわれのきくところのものを聞く耳は幸いである。しかし天のパンを与えられながら、われわれのたましいには貧しい食物は厭わしいとつぶやいたあの荒野のユダヤ人のようなことが、われわれにも起りはしないかと気をつけなさい、否、遺憾ながらわれわればすでにそれを見る。しかし、彼らが苦しんで死んだようなことが起こることを、われわれは知らなければならない、われわれにはかくありたくはないが。
 このことを、あらゆる恩恵とあわれみとの父が、われわれの主イエス・キリストによって、助けて下さいますように。このドイツ語詩篇の故に、またあらゆる彼の数えきれない言いあらわし難い恵みの故に、讃美と感謝と、栄えと貴さとが世々とこしえに主に帰せられますように。アーメン、アーメン。


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